夜と霧 新版 / ヴィクトール・E・フランクル
2010年 06月 13日
ユダヤ人精神分析学者がみずからのナチス強制収容所体験をつづった本書は、わが国でも1956年の初版以来、すでに古典として読みつがれている。著者は悪名高いアウシュビッツとその支所に収容されるが、想像も及ばぬ苛酷な環境を生き抜き、ついに解放される。家族は収容所で命を落とし、たった1人残されての生還だったという。
このような経験は、残念ながらあの時代と地域ではけっして珍しいものではない。収容所の体験記も、大戦後には数多く発表されている。その中にあって、なぜ本書が半世紀以上を経て、なお生命を保っているのだろうか。今回はじめて手にした読者は、深い詠嘆とともにその理由を感得するはずである。
ちょっと珍しい本を読んでみました。1947年初版。
ナチス・ドイツのホロコースト化で、かの有名なアウシュビッツ収容所に収容された、
ユダヤ人精神分析学者が自身も過酷な環境に置かれつつも、
冷静に収容生活の精神状態について分析した本です。
今までアンネの日記を始め、自伝はいくつか読んだことがありますが、
「収容者の視点からの、」客観的な叙述を含んだ本ははじめてです。
今まで収容者の心情は本当に想像がつかなくて、
ただ「つらいだろうなぁ、つらかっただろうなぁ」と思うばかりだったのですが、
この本を読んで、とても語弊がありますが、親近感が沸きました。(なんだろう、うまく言えない)
最後のほうで、何度も何度も読み返してしまった箇所を紹介します。
生きる意味を問う
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することが。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。
(略)
具体的な運命が人間を苦しめるのなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとないなにかをなしとげるたったひとつの可能性があるのだ。
収容者の「生きていることにもうなんにも期待が持てない」という言葉に対して、
フランクル氏がたどり着いた問いです。
すぐに感想は漏らせないけれど、今抱えている悩みが霧散した気がしました。
悩みとはいえ、「生きること」=「死なないこと」と同義だった収容所生活と
照らし合わせるなんておこがましいことこの上ないですが...
この本に書かれていることはWWⅡ後すぐ刊行されたもの。
今読んでも全く色あせていないし、色あせてはいけない内容です。
皆さん、大河ドラマの『竜馬伝』ご覧になっていますか?
私は初めてちゃーんと大河ドラマ見てます!!
最近の放送で土佐勤王党の隊員が捕縛され、
凄惨な拷問シーン(石抱きとか...)に目を覆いたくなります。
その拷問に立ち会ったのが後藤象二郎、そして史実ではのちの板垣退助。
2人とも社会科の授業では「明治の発展に貢献した人!」として紹介されていますが、
人を罵り、足蹴にし、拷問を命じていたのか...
そして後世の人から立派な人だと称えられたのか、と思うと
なにが正しいかなんて時流に寄ってしまうんだなと切なくなります。
武市さんだって違う時代に生きていれば、偉大なるヒーローだったのでしょうし、
ナチス・ドイツもあれだけ熱狂的な信者がいたのに、
大戦が終わったらあっという間に大罪人ですし、
仮初で、本質なんて何もないのだなと思います。
......詮無いことです。